2010/10/31 日曜日

モスクワ川沿いの散歩

Filed under: 熟年旅行 — mizusawa @ 8:39:40

モスクワ地下鉄1号線に乗って、パールク・クリトールイ駅で下車した。近くに「トルストイの家博物館」があると地球の歩き方に書いてあったからだ。地下から地上にでるとまず方角を確認しなければならない。手掛かりはモスクワ川の方角だ。ま正面の道路を右手に見て、左の方角に歩いて行った。次の大きな交差点は五差路のようになっており、行く手正面に韓国メーカの大きな看板があった。
運悪く雨が降り出した。傘をさして土砂降りのなかをトルストイの家博物館に到着した。門がしまっている。木でできた格子戸越しに中をのぞくと男性が携帯電話で話している。入口の扉を付近でうろうろしていたら、身振りで今日は見学できないと言われた。入口そばの木の塀に紙が一枚はってあり、ロシア語で何か書いてある。読めれば閉館の理由が分かったのだろう。
仕方なしに元の道をもどり、途中でカフェの文字を見つけて休憩することにした。店内はモダンな作りで、入口左手に小さな食品棚があり、そこにコンビニ弁当形式でサラダやサンドイッチ、それに海苔巻が並んでいた。カウンターでコーヒーを注文して、小さなテーブルに座った。隣の席に一人で座っていた若い女性は箸で海苔巻をつまんでいる。どうも、かっぱ巻きなどの海苔巻がモスクワのファッションなのかも知れない。このカフェではきれいなトイレが使えた。旅行中はトイレ探しも一仕事だ。
2日後に再度「トルストイの家博物館」を訪れた。朝10時前に到着して、開門をまった。10時3分ころ警備員の男性が扉をあけてくれた。見学者は我々だけ。入口右側に小さな切符売り場があり、その売り場の女性が現れない。10分くらい待って、年配の女性が現れ、小屋の中で切符を購入した。英語を話せる人だった。写真の撮影代も支払った。
トルストイの家に入ると、靴の上からスリッパを履くルールになっていた。トルストイの家族が使った食卓、食器類、寝室、トルストイが物語を執筆した部屋、自転車、子供たちの部屋などを見た。我が家と比較し、トルストイは大邸宅に住んでいたのだと知った。メードなどお手伝いさんの小さな部屋も3つあったと思う。
その後、近所を散歩することにして、モスクワ川を渡ってトレチャコフ美術館新館を目指して歩いた。屋外に彫刻公園がある。私は芸術は苦手なので全く興味が湧かなかった。奥の方の彫刻は有料のようで、美術館内部のイベントも有料らしい。小雨だったが、モスクワ川沿いを散歩することにした。
トレチャコフ美術館新館とモスクワ川にはさまれた道路のわきでは、油絵などを掲示して販売していた。100メートルはあったろう、季節外れのせいか人通りは少なく、まばらに商品の絵が並べられており、販売人がところどころに立っている。こちらの風情から絵を買う可能性がないことが分かっているせいだろう、声もかけてこなかった。素人目にはどの絵も美術館にある絵と同じように優れた出来栄えに見えた。
更に歩いて行くとピョートル大帝記念碑がある。船が何層も重なった面白い形の像だ。道の両側は駐車している車で埋め尽くされていて、歩きにくい。散歩を続けてモスクワ川を渡り、救世主キリスト聖堂まで行った。橋の上からはクレムリンも見え、眺望が良かった。
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ピョートル大帝記念碑

2010/10/30 土曜日

モスクワの交通手段

Filed under: 熟年旅行 — mizusawa @ 11:12:30

初めて10月に訪問するモスクワで、地理が不案内なこともあって、シェレメチエボ空港ターミナルDに到着したとき車の迎えが来るように予め日本から手配していた。空港で税関を通り過ぎて外に出たら運転手が名前を書いた札をかざして待っていた。そのままホテルに到着したが、1時間以上恐らく2時間かかったと記憶している。地図でホテルまでの距離を見ると40kmなので遅い。
翌日からは最寄りの地下鉄の駅をしばしば利用した。最初は切符売り場の表示がロシア語だけで迷ったが、その後は一人一回乗車に26ルーブルとわかり簡単だった。切符は紙製だが日本のスイカと同じように自動改札でリーダにかざす。青いランプが点灯すると同時に、後何回乗れるかの表示が出る。0(ゼロ)と表示されたらその切符は使いきったということになる。
地下鉄の改札口からプラットホームに行く時、かなり長いエスカレータで地下深くに降りていく感じだ。人の流れは一方通行になっていて、地下鉄入口も出口と別になっていることが多い。地下鉄は3分間隔で運転しているので、待ち時間が少なく便利な交通手段だ。ただ駅名の表示が少ないこと、乗り換えの案内がロシア語表示なので、慎重に考えざるを得なかった。地下鉄に乗ってみると、車体に落書きはなく、周囲を見回しても安心という印象だった。パリの地下鉄では緊張するが、モスクワの地下鉄は東京の地下鉄と同じ安心感で乗れる。
地下鉄を利用して、チャイコフスキーが白鳥の湖を作曲するイメージを湧かせたという泉に行った。そばに世界遺産のノボデビッチ修道院がある。地下鉄の駅を出て修道院の外壁に行きついたときに左方向を選んだため、お墓への入口に入ってしまった。中で清掃していた人に聞いたら反対側だというような身振りで教えてくれた。再度外壁を半周してノボデビッチ修道院に入った。泉は修道院の外にあり、沢山の家族連れが散歩していた。気温は3℃である。とても寒い。
学会が終了してホテルからシェレメチエボ空港ターミナルDに車で向かった時は、モスクワの大渋滞を否応なしに経験した。40kmの距離を車で走るのに3時間以上かかったのだ。若い運転手は大渋滞の幹線を避けてハンドルを頻繁に回していた。おかげで一時気持ち悪くなるほどだった。次回モスクワを訪れる機会があったら、その時は地下鉄を利用するつもりだ。
ノボデビッチ修道院の遠景
ノボデビッチ修道院の遠景

Moscowのバンケット

Filed under: 熟年旅行 — mizusawa @ 10:29:43

国際会議ではバンケットがつきものだ。参加者がお互いについて知りあう場として会議の最初の夜に設けられた。モスクワのホテルで晩餐会が20時から始まった。
10人がけの円形テーブルが16ほど並んでいた。大きな部屋で天井には夜の空が描いてあり、周囲の壁にはヨーロッパの建物の外壁が並んでいる。演劇の舞台のようにも見えた。
座席は指定されていないようだ。まだ席には余裕があったので何処に座るか迷ったが舞台近くの一つについた。舞台ではカルテットがビバルディの曲目を奏でていた。同じテーブルに座っていた4名は知り合いのグループのようだった。
座っていた男性の横の席が空いていたので、「ここに座っていいですか?」と尋ねると、誰か来るという。そこで一つ席をあけて着席した。
女性の給仕係りがワインを白か赤かと聞いてきた。赤ワインを頼んだ。前菜の次に、「ジュリエン」というロシア料理がでてきた。小さな器に入ったクリーム煮をオーブンで焼いた料理だ。美味しかった。
隣の席には遅れて年配のご婦人が座った。楽しげにお話をしてくれた。お母さんがロシア育ちで、恐らくロシア革命の影響で、ヨーロッパに逃れ、それからアメリカに渡った。70代のご婦人は米国で生まれボストンに住んでいる。生まれて初めてロシアを今回訪問した。テーブルの向いに座っている若いロシア人の男性とはロシア語で話している。彼曰く、このご婦人のロシア語は完ぺきだという。
70年以上の歴史が一人の老婦人を翻弄したお話を目の前で聞いた。老婦人が赤ちゃんの時にお母さんから聞いたロシア語が70年以上経過してそのまま使える。お母さんが赤ちゃんに与える言語能力そしておそらく全ての感覚について、母の能力はすばらしいことだと感心した。
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バンケットの演奏

2010/10/18 月曜日

ロシアはサハリンを売ってくれる?

Filed under: 熟年旅行 — mizusawa @ 14:07:23

モスクワで開催される国際会議に参加した。ロシアに滞在するのは初めてなので若干緊張気味だ。東西冷戦時代の情報が頭の中から湧き出してくるからだ。
東京を出た時は秋なのに夏日の20度以上の気温だった。モスクワについたら3℃と寒い。日曜日にホテルから家内と二人で外出した。手袋と毛糸の帽子を持ってきて助かった。
冷戦時代はソビエトと米国が対立していた。私が学生時代はソビエトがスプートニクを打ち上げたこともあり、ソビエトの科学技術が世界を驚かせ、その影響もあって私は第二外国語としてロシア語を勉強した。文字を見て片言で読めるので、その発音から言葉の意味をある程度推測できる。学生時代に習った言語を55年以上前でも思い出せることに驚いた。
ロシア内の旅行は滞在するホテルを予め予約しておかないとロシア大使館のVISAが下りないようだ。お金がかかっても面倒なことに巻き込まれないようにという考えで、学会が紹介する高級ホテルに滞在した。ホテルはカジノが一緒で、これほど派手なホテルに滞在するのは初めてだ。
日曜日に外出して歩き回ると、日本、ヨーロッパ、韓国、米国の比較的小さな車が町を埋めている。ホテルの近くの地下鉄1号線にのった。ロシア語が通じないし、掲示が理解できないので、1日券をかったつもりが2回券だった。地下鉄に入る時入口のマシンに切符をかざすが、出るときは切符の提示は必要なかった。
地下鉄は地下深くを走っており、ホームに降りるエスカレータが長い。地下のプラットフォームは天井が高くて広い。核戦争に備えた地下壕でないかと推測した。
モスクワ市民は皆アパートに住んでいて戸建がないとガイドが説明してくれた。アパートは20階ほどの高層アパートが多い。モスクワにはビジネス街高層ビルがほとんどない。目立ったのは中心部に突き出ていたビルが一か所だった。土地が沢山あって高層ビル化の必要がないのかも知れない。町のところどころに貧しい人を見かけた。社会主義の時代にはなかった風景に違いない。道路は車で大混雑だ。モスクワの交通渋滞は常識となっているという。
漠然とした印象だが、ロシアの首都としては活気がないように感じた。もしかすると中国に経済の発展で遅れをとっているのではないか。その昔、ロシアがアラスカを米国に売ったように、サハリンを日本に売ってくれる可能性があるかも知れない、などと思った。
そのような動きが政治の水面下であるのであれば、日本政府は実質は赤字覚悟で購入し、日露の平和的な領土問題決着をして欲しい。一日本市民のたわごとである。

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モスクワのアパート

2010/10/9 土曜日

中国民主活動家に平和賞

Filed under: 若者に話したい仕事の経験 — mizusawa @ 20:27:58

本日10月9日土曜日読売新聞朝刊1面トップのヘッドラインは「中国民主活動家に平和賞」である。獄中の劉暁波氏にノーベル平和賞が授与されるそうだ。中国政府は猛反発していると報道されている。尖閣諸島で発生した先日の問題より格段に中国政府にとって扱いが難しい問題だろう。
夕方BS2の番組「上海・百年の物語」を見た。日本軍の侵攻、国民党と共産党の闘争、文化大革命と紅衛兵の活動など歴史の荒波が貧しい庶民、豊かな階層にもたらした変化を分かりやすく紹介していた。毛沢東がなくなり、鄧小平が指導者になり「豊かになれる者から豊かになれ」と金融の自由を上海に認めて現在の豊かな上海が復活したとまとめていた。
中国が豊かになり影響力が強まったため、中国の政治的な動きが世界で注目を集め、米国やヨーロッパが求めている元の通貨レート切り下げや、今回の「民主化促進要求」に結び付いている。
「上海・百年の物語」のある一場面で、20数名のうち半数近くの男性が紅衛兵であったと挙手していた。その内一人は、若かった紅衛兵時代の自分の行動について「動機の純粋さ」を認めて欲しいと熱弁していた。一方で同じ年代が「紅衛兵として取った行動は自分たちの誤りであったと認めるべきだ」と反論していた。この光景をテレビで見て、紅衛兵世代が中国に厳然として多数存在する限り、政治のかじ取りを誤ると、文化大革命がもたらした社会の大混乱が再発するかも知れないと、中国指導者が懸念していることが理解できるように感じた。
一方中国の若い世代は、「上海・百年の物語」で取り上げられた親の世代の混乱をどうみているのだろう。中国の民主化運動は世代交代が現実のものとなる20年後から徐々に進むのではないかと予想する。それまで中国政府は自国民に対して「経済発展」を優先し、「民主化の動き」を封じ込める政策を続けそうだ。
中国の指導者が「改革開放」政策で高い経済成長を成し遂げたとおなじように、中国独自の「民主化」政策を誕生させることができるのか世界中が注目している。

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